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直訴状は佐野市郷土博物館に収められているのだが、2014年5月に現在の天皇がこれを訪ねてそれを目にした。あれから実に113年、直訴状はついに天皇に届いた。これにより「不敬」とされた田中正造の名誉は完璧に回復された。
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ここで私が目に止めた彼の言葉を紹介する。
最期の言葉「大勢、見舞いに来ているそうだが、うれしくも何ともない。みんな正造の病気に同情するだけで、正造の問題に同情しているのではない。おれはうれしくも何ともない。行ってみんなにそう言え。」(1913年9月4日、71歳、病床に看護主任を呼んで)
死の淵にあって最期まで、自分のことより自分が取り組んできた問題(足尾鉱毒事件:渡良瀬遊水池用地としての谷中村廃村問題)のことを見舞いの人たちに遺言して、未来を託したのだろう。
日本人論「日本人の気風は下より起こらず、上よりす。民権も官よりす。日本の民権は、民人より発揚せるにはあらざるなり。憲法すら上よりす。ああ、一種不思議の気風なり。」(1911年69歳、日記より要約)
田中正造が当時としては極めて先進的な思想を持ち、それを体現していたかがわかる。また、日本人の気風「お上にお任せ」という民度は、戦前どころか明治から変わっていないということだろう。
佐野市郷土博物館の近くには、田中正造旧宅 も史跡として残されている。館林市には 田中正造記念館、渡良瀬遊水池には 旧谷中村跡 、古河市には 田中正造翁遺徳碑 がある。墓所も数箇所ある。田中正造を知る上で、ぜひとも佐野市周辺を訪れてみると良い。
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