問題の対象に着目してその回復を図ろうとする場合にも色々あって、対象そのものの問題点の回復を図る方法の他に、対象を問題化してしまう場を変えてしまうという方法もある。
具体的にいうと、いじめの問題において、いじめられっ子に加害能力をつけて、本人がいじめられなくするのが前者。いじめを生み出す差別やカーストのようなしくみを変えようとするのが後者。
あるいは、学歴偏重社会によって生み出された貧困層の子供に、学力をつけさせて、学歴カーストの上位に立たせようというのが前者。学歴の土台に乗らせずに別次元の能力(自力で稼ぐ能力など)をつけさせるのが後者。学歴偏重をなくすために社会を変えようというのも後者。
前者に共通する最大の問題点のは、カースト低位を生み出す既存のしくみを加速させてしまうことである。いじめ加害能力身につけた加害者は被害者を生み出す。学歴カースト上位に立った者も、自らの地位安泰のために学歴偏重のしくみの維持に回る。
簡単にいうと、前者の方法は、弱者を強者に回してその本人の回復を図ろうということ。強者と弱者の流動化という意味では、市場的観点での良好なバランスを生むかもしれない。今よりはマシかもしれない。しかし、今より悪くなる可能性も同じくらいある。なにより、弱者を生み出すしくみは何も変わらない。これからも弱者は次々と生み出されることになる。
前者は、言ってみれば「競争の加速」をしているのだ。その先に何があるのかといえば、社会そのものの自滅しかない気がする。
…何が言いたいかというと、後者の方法を取らないといけない気がするんだよね。おかしいと思ったら仕組みから変えないと、結局同じだってこと。前者ではハッピーになるのがその本人だけで、未来の時間軸も含めて社会としては全然ハッピーじゃないってこと。なんかまとまらないが、言いたいことはそれだけ。
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